武州正藍染めの歴史
武州正藍染の“武州”とは、武蔵国と呼ばれた埼玉県広域を指します。
江戸時代、特に北部では綿、藍が盛んに栽培されており、加須市、行田市、羽生市近辺には、最盛期に200軒近くの藍染屋があったと言われています。
“正藍染”とは天然素材のみを使用した藍染のこと。
ここ行田・羽生・加須を中心とする埼玉県北部地域は、江戸時代に綿の一大産地でした。
そして、行田から4km程行った利根川流域では、藍が盛んに栽培されていました。
この綿と藍が結びついて始まったのが武州藍染の起こりだと言われています。
この地域に藍染の技術が伝えられたのは、江戸時代の天明年間(1781年〜1789年)。
藍の濃淡だけで素朴な美しさが表現される武州正藍染は、民芸調などの柄が出せる武州型染、
藍の色合いのなかに明るい色が印象的な新しく工夫された武州唐桟があります。
洗えば洗うほど色が冴え、美しい風合いになっていく特徴があります。
武州正藍染は、埼玉県伝統的手工芸品であり、2008(平成20)年9月19日、特許庁の地域団体商標に登録されました。
そして武州正藍染を語る上で外せないのは、日本の資本主義の父と言われた渋沢栄一の存在です。
渋沢栄一といえば、2024年に新一万円札の表の図柄になることで、注目を集めており、2021年2月からスタートのNHK大河ドラマ「青天を衝け」は渋沢栄一が描かれています。
渋沢栄一の実家(中の家)の主業であった深谷名産の藍玉(染料原料)の売買を手伝い、少年時代から大人顔負けの商才を発揮し、多大な利益を上げることに貢献するとともに、「論語と算盤」を唱え、日本資本主義の父として明治維新後の日本を牽引していきました。
渋沢栄一は、阿波の藍に負けない良い藍を作ろうと考え、良い藍を栽培した農家を相撲の番付を利用し、順番に大関、関脇、小結・・・とあて、「武州自慢鑑藍玉力競」の番付表を作り、競争力を高めていきました。
この番付表は、渋沢栄一記念館に、表示されています。
「藍田は家を興す」と言われてた藍は、経済人渋沢栄一のルーツとなったといわれています。
また、藍染にかかせない養蚕の始まりは西暦450年とされており、日本書紀に「雄略天皇が皇后に蚕を飼うようにすすめた」と記述されているようです。現在、歴代の皇后陛下が引き継ぐ形になっているのは、明治4年昭憲皇太后が吹上御苑内で復興されたのが最初とされ、復活に際し、渋沢栄一に相談されたというお話もあります。
藍は人類最古の染料
人類は有史以前から藍を使って染色をしてきたといわれています。
世界には多くの藍の種類があり、日本でも幾種の藍植物が染色に用いられてきたといわれています。
その中でも、「日本の藍(Japan Blue)」として、その美しさや効用が世界に知られたのがタデ科の「蓼藍」とされています。
武士の色から日本の色への変化
鎌倉時代には、武士が一番濃い藍染を「かちいろ(勝色)」と呼び、勝ち戦の縁起担ぎに多用していたようです。それにより藍染は、武士の色として広まっていきました。
そして室町時代には、庶民に至るまで日本人の衣類や生活財に使われる最もポピュラーな色になったようです。
ラフカデオ・カーン(小泉八雲)が日本を「藍の国」と表現し、化学教師として日本にきたイギリス人教師のアトキンソンが、日本の藍を「ジャパンブルー」と称したのは、世間的にも有名な話となっております。
それから、藍染は「ジャパンブルー」とも呼ばれるようになりました。
そして江戸幕府を開いた徳川家康も藍染の辻が花染めの小袖を愛用していたとも言われています。
武将から庶民まで、様々な方に愛された藍染は、日本ではポピュラーな染料となりました。
自然原料の藍は日よけにもよく、虫よけにもよく、さらに防臭効果もあったため、武士の鎧下の服や防具にも使われるようになり、その後は、剣道着や足袋、袴にも藍染が使われるようになっていきました。
武州地方の井戸水は、他の地域よりも鉄分を多く含んでいたため、媒染作用で紫かかった濃い藍染に染まったため、勝色(かちいろ)と呼ばれる深く濃い色味が武州正藍染の特徴とされています。